今年のお盆は

ただひたすらゆっくりと

引きこもりをしようと思っていたのに

ベランダの雨溝から水漏れで

ちょうど下は店舗の玄関口。

大雨の降った日には

店舗の入り口にポタポタ。

今年の雨や台風は半端ない降り方するので

早い事修理せねばと思いつつ

とうとう今日になってしまったわけで、

幸い猛暑で

防水にはもってこいの天気が続き

普段より働くお盆休みになってしまいました。

汗でドロドロ

Tシャツ3回着替え

手も防水ペンキでベタベタ。

おまけに小傷が絶えない。

業者に頼めば済む話なのですが、

こんな時期なので節約節約!

結局何でもしてしまう自分を・・

誰を恨めばよいのでしょうか。

**

ひと仕事終えて今日は

そうだそうだブログを書かなくては。

と言うのは先日、

母の手記が出てきた。

母は結構筆まめで

いろんなところに自分の生い立ちやら走り書きを

残している。

今回のは古文書とまではいかないが

断片的だった初代の情報に加え

当店の歴史を知るうえで

重要な手掛かりになる事は間違いない。

仕事の合間にサッサと書いたのか

帳面に走り書きされていて少々翻訳がいる。

年号もつじつまが合わない所が有り

解析と年号公正に時間がかかってしまった。

で、

何が書かれていたかと言うと

これまであまりにも情報のなかった

初代(祖父)の昭和35年までの内容だった。

若き頃からクリーニングの世界に入った様子を

4ページほど綴っていた。

沿革では創業を「中塚洗染店」昭和7年と記されてるが

初代がクリーニング店を「神戸屋」と言う屋号で

赤穂の上郡町で最初に始めたのを創業とすると

さらにさかのぼって大正14年という事になる。

実に創業95年という事だ。

あと5年後は是非とも私の代で

創業100年イベントをやらなければと思う。

もう立派な老舗じゃないですか。

ここまで続いてきたコアの部分は

初代のクリーニングに対する思いが

語られている部分で

「自分だけのものにせず皆さんにすすめてうるおってもらいたい」

と言う文言。

身震いした。

初代

戦中戦後も相当苦労したそうで

疎開は自転車で神戸から里の相生まで行ったそうな。

そして戦後神戸で建てた自宅店舗の材木や資材は

先代(父)と弟とですべて龍野から大八車で持ってきたそうな。

二代目

さてこの先何年続くのだろうか、

私がやらなければならないことは

次の代への承継。

初代の業界への想いと私のお客様への想いを・・。

初代「神戸屋?中塚洗染店」

二代目「中塚クリーニング店」

三代目「Royal MIYABI」

さて四代目はどうなるやら・・。

**

以下母の手記を訳して全文書いてみた。

(赤字の部分は私の解析)

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中塚クリーニング創始者中塚国二の歩み

明治37年8月19日に生まれた。

大正9 16歳の少年は学校を上がるとクリーニングの修業をすべく一文字クリーニング店(庄治氏?)に弟子入りをした(現相生市旭三丁目)。(弟子入りは大正11年と記されている)

朝五時起きで夜は九時まで親方の肩や足をもみ就寝は一時を過ぎていた。随分厳しい修行だったと思う。今の若者には通じないと思う。

大正12年 上郡で結婚。結婚の経緯はわからないが祖母は神戸でかなりの美人さんだったらしい。

大正14年 5・6年勤めあげて(年代が合わない)上郡町に小さな店舗を。「神戸市ヤ」(神戸屋?)と言う店名でお客様にずいぶんかわいがられて利益も上がったようで従務生活から店主になって有頂天になったのか2年程たたない内に使ってスッピンになったと笑いながら話してくれた事を思い出す。(ここを創業とするならば沿革に記す「創業7年」をさかのぼり「大正14年創業」という事になる)

昭和2年 妻の実家のある神戸に身を寄せて長男(現当主)(二代目中塚国男、私の父)が生まれた。

昭和7年義父がインド人の会社に勤めていたので、そこのクリーニング(白物が多かった)を頼まれ葺合の高架下(東雲町5丁目)(東雲通5丁目)で中塚洗染店として開業した。順長(順調)に運んで2・3人の職人も入れて借家もたて、子供は7人になった。うるおった生活もでき町内会長になり地域の為に活躍していた。

昭和20年3月10日神戸大空襲で一家焼け出され二人の子供も疎開に出て5人を連れて実家の龍野市の兄の家に身を寄せる。

2年程農作業の手伝いをしながら小作を依頼されて一家はやっと落ち着いて食事を充分出来るようになったとか。神戸に出ることを胸にひめて、いろいろな仕事を骨身おしまず働いて家族を守ったと母が懐古してた。

長男は近隣の建築屋に弟子入りし、長女次男は町工場に行き2年程で神戸に出ることを実行した。

昭和22年神戸市には母の姉夫婦がパン屋をしていたので現住所で3帖ほどの過度の軒先をかりてひのし台を置き裏庭でザラ板でごしごし洗っていた。脱水機が一台あった。

この西灘商店街は人通りも多くて学校も多くて大変忙しい毎日で人手が足りなくなって長女を呼び1年後中学を終えた三男も手伝い、長男も後に入店した。

近所に安い土地が出て思い切って買い長男と共に家を新築する。木材はすべて郷里龍野で求め大八車で次男と共に神戸まで引っ張ってきた。大変な道のりで苦労したようだ。

昭和25には立派な店舗も出来、借金はあったけど家族全員呼び寄せて店は賑わって順調に行きそれぞれ息子たちのも結婚して成長していった。

昭和32年 二代目の中塚国男の長男中塚雅一(三代目)が生まれる。

昭和35自家ドライをしようという事でオープンドライ機(フナト技研)を購入。大勢の人が見学に来られた。そして皆さんに勧めた。(人生に挑戦する人、私も貴方も)父は自分だけのものにせず皆さんにすすめてうるおってもらいたいと常に口にしていた。

この大きな創始者のわだちを踏みながらの難しい社会情勢ののり切りは大変です。

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